あひ見ての のちの心に くらぶれば 昔は物を 思はざりけり 百人一首
藤原敦忠(ふじわら の あつただ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。藤原北家、左大臣・藤原時平の三男。官位は従三位・権中納言。三十六歌仙の一人。小倉百人一首では権中納言敦忠。
醍醐朝後期の延喜21年(921年)従五位下に叙爵し、延喜23年(923年)侍従に任ぜられる。醍醐朝末の延長6年(928年)従五位上・左兵衛佐に叙任されると、右衛門佐・左近衛権少将と武官を経て、承平4年(934年)従四位下・左近衛権中将兼蔵人頭に任ぜられる。天慶2年(939年)従四位上・参議に叙任され公卿に列す。
天慶5年(942年)には先任の参議4名(源高明・源清平・藤原忠文・伴保平)を越えて、一挙に従三位・権中納言に叙任されるが、翌天慶6年(943年)3月7日薨去。享年38。
美貌であり、和歌や管絃にも秀でていた。
『後撰和歌集』(10首)以下の勅撰和歌集に30首入集[1]。家集に『敦忠集』がある。 『後撰和歌集』や『大和物語』等に、雅子内親王(醍醐天皇皇女、伊勢斎宮)他多くの女流歌人との贈答歌が残されている。『後撰和歌集』『拾遺和歌集』『朝忠集』には伊勢、藤原清正、藤原朝忠、藤原伊尹等様々な人物との交流が見られる。
43番 あひ見ての のちの心に くらぶれば 昔は物を 思はざりけり(『拾遺和歌集』)
管弦では、敦忠の死後に管弦の名手であった源博雅が音楽の御遊でもてはやされるのを見た老人達が、敦忠の生前中は源博雅等が音楽の道で重んぜられるとは思いもしなかったと嘆いた、との逸話が『大鏡』で語られている[3]。
比叡山の西坂本に音羽川を引き入れた別業(別荘)を有していたという。