菅家 このたびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉のにしき 神のまにまに 百人一首

菅原道真(すがわら の みちざね、承和12年6月25日〈845年8月1日〉- 延喜3年2月25日〈903年3月26日〉)は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。

忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで上り詰めたが、藤原時平の讒言(昌泰の変)により、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後は怨霊になり、清涼殿落雷事件などで日本三大怨霊の一人として知られる。後に天満天神として信仰の対象となり、現在は学問の神様として親しまれる。太宰府天満宮の御墓所の上に本殿が造営されている。

小倉百人一首では、菅家

生涯

『月輝如晴雪梅花似照星可憐金鏡転庭上玉房香』(月岡芳年『月百姿』)11歳で漢詩を作った

『梅紋』道真公・天満宮の象徴として使われる 道真は是善とその夫人・伴氏の3男として生まれ[1]、幼名が「阿呼」(あこ)とされる。幼少期について信用できる史料はほとんどない。[2]。兄二人の記録はなく、道真も兄弟はいないとしていることから夭折したものと考えられてきた[2]が、詩中に一人子の表現があり一人子説が支持されている[3]。

道真は幼少より詩歌に才を見せ、11歳で初めて漢詩を詠んだ[2]。『菅家御伝記』によれば、道真の師は文章生田口達音であったとされる[4]。貞観4年(862年)18歳で文章生となる。貞観9年(867年)には文章生のうち2名が選ばれる文章得業生となり、正六位下・下野権少掾に叙任される。貞観12年(870年)、官吏登用試験『対策』の方略策に「中上」の成績で合格し、位階を進め、正六位上となった[5]。玄蕃助・少内記を経て、貞観16年(874年)従五位下に叙爵し、兵部少輔ついで民部少輔に任ぜられた。当時の朝廷の第一人者藤原基経も道真の文才を評価した一人であり、父・菅原是善を差し置いて、度々代筆を道真に依頼している[6]。元慶元年(877年)式部少輔次いで世職である文章博士を兼任する。元慶3年(879年)従五位上。元慶4年(880年)の父・是善の没後は、祖父・菅原清公以来の私塾である菅家廊下を主宰、朝廷における文人社会の中心的な存在となった。

仁和2年(886年)讃岐守(讃岐国司)を拝任[7]、式部少輔兼文章博士を辞し、任国へ下向することとなった。道真はこの任が「左遷である」と言われていることが残念であると述べており、度々悲しみの意を表している[8]。送別の宴で、道真は摂政藤原基経から詩をともに唱和するよう求められたが、落涙・嗚咽して一言しか発せなかったという[9]。仁和3年末には一時帰京し、翌仁和4年(888年)正月には任地に戻った[10]。この年の4月、阿衡事件が発生し、基経が職務を妨害する事態となった。道真は10月頃再び入京し、基経に事件の発端となった橘広相を罰しないように意見書(奉昭宣公書)を寄せて諌めたとされる[11]。この書が出されたとされる11月にはすでに橘広相は赦免されており、基経の態度に影響を与えるものではなかったが、儒者による橘広相への非難を緩和する効果があった可能性も指摘されている[11]。


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Last-modified: 2024-01-16 (火) 09:03:24