人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は

概要

後鳥羽天皇(ごとばてんのう、旧字体: 後鳥羽󠄀天皇、1180年8月6日〈治承4年7月14日[1]〉- 1239年3月28日〈延応元年2月22日〉[2][3])は、日本の第82代天皇(在位:1183年9月8日〈寿永2年8月20日〉- 1198年2月18日〈建久9年1月11日〉)。諱は尊成(たかひら・たかなり)。

高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。

文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、承久の乱で鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが敗北し隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。

崩御

後鳥羽院は隠岐に流される直前に出家して法皇となった。『明月記』の記録によると、文暦2年(1235年)の春頃には摂政・九条道家が後鳥羽院順徳院の還京を提案したが、北条泰時は受け入れなかった。

四条天皇の御代の延応元年(1239年)2月22日、配所にて崩御した。宝算60。同年5月、「顕徳院」と諡号が贈られた。『平戸記』によると泰時が死亡した仁治3年(1242年)の6月に、九条道家が追号を改めることを提案し、あらためて「後鳥羽院」の追号を贈ることとなった[11]。ただし、これを提案したのは土御門定通とする説もある[12]。後高倉皇統の断絶によって後嵯峨天皇(土御門院皇子)の即位となった仁治3年(1242年)7月には正式に院号が「後鳥羽院」とされた。


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Last-modified: 2023-06-26 (月) 09:02:22