恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひ初めしか 百人一首

壬生忠見(みぶ の ただみ、生没年不詳)は、平安時代中期の歌人。右衛門府生・壬生忠岑の子。父・忠岑とともに三十六歌仙の一人に数えられる。

経歴

天暦8年(954年)に御厨子所定外膳部、天徳2年(958年)に摂津大目に叙任されたことが知られるが、詳細な経歴は未詳。

歌人としては天暦7年(953年)10月の内裏菊合、天徳4年(960年)の内裏歌合に出詠するなど、屏風歌で活躍した。勅撰歌人として『後撰和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に36首入集[1]。家集に『忠見集』がある。

逸話

「天徳内裏歌合」で

恋すてふ 我が名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか(『拾遺和歌集』恋一621・『小倉百人一首』41番) と詠み、

忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで
と詠んだ平兼盛に敗れたために悶死したという(『沙石集』)。なお、『袋草紙』では悶死まではしておらず、家集には年老いた自らの境遇を詠んだ歌もあり、この逸話の信憑性には疑問が呈されている。

忠見は家は貧しかったものの、早くから和歌の才能を人々に知られていたので、幼少のとき内裏よりお召しがあった。乗り物がなくて参内できないと申し上げると、竹馬に乗ってでも参内せよと仰せがあったので、「竹馬は ふしかげにして いと弱し 今夕陰に 乗りて参らむ(=竹には節があり、竹馬はふし鹿毛という毛色で弱いので、今日の夕日かげに乗って参上いたします)」と歌を詠んで奉った。この逸話は『袋草子』に収録されていて、江戸時代ごろの忠見の画像には、子供の姿で竹馬にまたがっているところを描いたものが多かったという。


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Last-modified: 2023-09-29 (金) 09:07:42