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凡河内躬恒(おおしこうち の みつね、貞観元年(859年)? - 延長3年(925年)?)は、平安時代前期の歌人・官人。姓は宿禰で[1]、出身氏族の凡河内氏は凡河内国造の後裔。『勅撰作者部類』では淡路権掾・凡河内諶利の子とされるが詳細は不明。官位は五位[2]・和泉大掾。三十六歌仙の一人。

経歴

寛平6年(894年)甲斐権少目、延喜7年(907年)丹波権大目、延喜11年(911年)和泉権掾、延喜21年(921年)淡路権掾に任ぜられるなど、宇多朝から醍醐朝にかけて地方官を歴任。延長3年(925年)和泉国から帰京してまもなく没したという。

歌人として、歌合や賀歌・屏風歌において活躍し、昌泰元年(898年)の「朱雀院女郎花合」に出詠して以降、延喜7年(907年)宇多法皇の大堰川行幸、延喜16年(916年)石山寺御幸、延喜21年(921年)春日社参詣などに供奉して和歌を詠進した。またこの間の延喜5年(905年)には、紀貫之紀友則壬生忠岑と共に『古今和歌集』の撰者に任じられている。

三十六歌仙の一人に数えられ、『古今和歌集』(60首)以下の勅撰和歌集に194首入集するなど[3]、宮廷歌人としての名声は高い。家集に『躬恒集』がある。

なお、広峯神社祠官家である広峯氏は躬恒の末裔を称した[4]。

逸話

『大和物語』132段に、醍醐天皇に「なぜ月を弓張というのか」と問われ、即興で「照る月をゆみ張としもいふことは山の端さして入(射)ればなりけり(=照っている月を弓張というのは、山の稜線に向かって矢を射るように、月が沈んでいくからです)」と応じたという話がある。

『無名抄』によると貫之・躬恒の優劣を問われた源俊頼は「躬恒をばなあなづらせ給ひそ(=躬恒をばかにしてはいけません)」と言ったという。


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Last-modified: 2023-07-07 (金) 13:12:23