心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな 百人一首

三条天皇(さんじょうてんのう、旧字体: 三條天皇、976年2月5日〈天延4年1月3日〉- 1017年6月5日〈寛仁元年5月9日〉[1])は、日本の第67代天皇(在位:1011年7月16日〈寛弘8年6月13日〉- 1016年3月10日〈長和5年1月29日〉)。諱は居貞(おきさだ / いやさだ)。

冷泉天皇の第二皇子。母は摂政太政大臣藤原兼家の長女・贈皇太后超子。花山天皇の異母弟。

略歴

冷泉天皇の第二皇子。冷泉天皇が弟・守平親王(円融天皇)に譲位してから7年後、天延4年(976年)に冷泉上皇と、女御藤原超子の間に生まれた。その超子の父は当時正三位権大納言であった藤原兼家である。

7歳で母を失い、父帝・冷泉上皇は精神病を患っていたため、その後見は薄弱であった。外祖父兼家に容姿が酷似し風格があったといい、兼家の鍾愛を受けて育ったことが『大鏡』に見える。

花山天皇の寛和2年(986年)6月23日、花山天皇は出家し懐仁親王(7歳・一条天皇)に譲位した。一条天皇は円融上皇と女御藤原詮子(超子の同母妹)の子であり、居貞親王の従弟にあたる。同年7月16日、11歳の居貞親王は兼家の後押しで東宮となる。冷泉・円融両統の迭立に基づく立太子であったが、東宮の方が天皇より4歳年上であったため、「さかさの儲けの君」といわれた。この立太子の理由は次の様に考えられている。すなわち、兼家は冷泉・円融の両天皇に娘を入内させていたが、円融天皇と不仲であったこと、冷泉天皇は超子との間に3人の親王を儲けていたことから、冷泉系をより重要視していた[2][注釈 1]。また、孫(一条帝)は天皇、娘詮子は皇太后となり、自らは摂政となった兼家の自己顕示欲によって、もう一人の孫である居貞親王も東宮とされた[3]。

一条天皇の朝廷では、外祖父の兼家の死後、外舅(母の兄弟)にあたる道隆・道長の兄弟が先後して政権を掌握した。東宮の居貞親王の後宮には、初めに永祚3年(989年)兼家の娘で叔母に当たる藤原綏子が入った。正暦2年(991年)藤原済時の娘娍子が入り、同5年(994年)には敦明親王を儲けた。続いて正暦6年(995年)道隆の娘である藤原原子が入内した。しかし、綏子と原子は早世してしまい、一時期は東宮女御は外舅の身内でない娍子のみになってしまった。寛弘7年(1010年)、道長の次女妍子が入内した。なお、妍子は敦明親王と同年の生まれである。

寛弘8年(1011年)危篤状態の一条帝は崩御数日前に譲位し、36歳の居貞親王はようやく即位することとなった。皇太子には中宮藤原彰子の子、敦成親王(後一条天皇)が立った。

翌長和元年(1012年)道長の次女妍子が中宮となるが、三条天皇は長年の妻である娍子を皇后とし、二后並立状態となる。同2年(1013年)妍子は禎子内親王を出産する。外孫の早期即位を図る道長と親政を望む三条天皇との関係は円滑を欠いていたが、道長の娘・妍子がいながら娍子を立后したこと、妍子との間には女児しか儲けられなかったことにより、道長と三条天皇の関係は決定的なものとなった[2]。

長和3年(1014年)三条天皇は眼病を患う。仙丹の服用直後に視力を失ったといわれる[注釈 2]。道長は天皇の眼病を理由にしきりに譲位を迫った。更にこの年と翌年、内裏が相次いで焼失[注釈 3]。病状の悪化もあり、同5年(1016年)三条天皇は皇后娍子の子敦明親王の立太子を条件に、道長の勧めに従い一条天皇第二皇子の後一条天皇に譲位し、太上天皇となる。翌寛仁元年(1017年)4月に出家し、程なく42歳で崩御した。

同年8月9日、敦明親王は道長に無言の圧迫を掛けられ、自ら東宮を辞退した。このことにより冷泉・円融両系の両統迭立に終止符が打たれ、皇位は永く円融天皇の直系に帰したが、三条天皇の血統もまた禎子内親王(後三条天皇の母)を通じて以後の皇室へ受け継がれていくことになる。

和歌

譲位の際に詠んだとされる歌が小倉百人一首に採られている。

心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな 三条院


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Last-modified: 2023-08-22 (火) 08:35:50