やすらはで 寝なましものを さ夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな 百人一首

赤染衛門(あかぞめえもん、天暦10年(956年)頃? - 長久2年(1041年)以後)は、平安時代中期の女流歌人。大隅守・赤染時用の娘。中古三十六歌仙[1]・女房三十六歌仙の一人。

経歴

赤染衛門は赤染時用の娘とされる[2]。しかし『袋草紙』には、赤染衛門の母親は前夫の平兼盛の子どもを宿した状態で時用と再婚し、赤染衛門を出産したとする記述がある[1]。その後、平兼盛は娘の親権を巡り、裁判を起こしたと伝わる[1]。兼盛は敗訴したという[要出典]。

赤染衛門は文章博士・大江匡衡と貞元年中(976~978)に結婚する[1]。大江匡衡と赤染衛門はおしどり夫婦として知られており、仲睦ましい夫婦仲より、匡衡衛門と呼ばれたという[3]。大江匡衡との間に大江挙周・江侍従などを設けた[1]。藤原教通との間にも娘がいたとされる[1]。赤染衛門は源雅信邸に出仕し、藤原道長の正妻である源倫子とその娘の藤原彰子に仕えており、紫式部・和泉式部・清少納言・伊勢大輔らとも親交があった[1]。匡衡の尾張赴任にも共に下向し、夫を支えた[1]。また、子の挙周の和泉守への任官に尽力して成功させ[1]、任期を終えた挙周が病に罹った際には住吉明神に和歌を奉納し病を平癒に導いた話[1][4]など、母としての像も鮮やかである[5]。長和元年(1012年)に夫・大江匡衡が逝去した後は、信仰と子女の育成に尽くしたという[要出典]。

長元8年(1035年)関白左大臣頼通歌合出詠[1]。長久2年(1041年)弘徽殿女御生子歌合出詠[1]。同年、曾孫の誕生を言祝ぐ和歌を詠んだ後、消息が途絶える[1]。晩年、藤原頼通の求めに応じて、自撰歌集を献上したことが知られる[1]。

歌風

『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に93首が入集[6]。その歌風は『古今和歌集』の歌風を忠実に継承し、理知的で優美な詠風を示す[1]。

平安時代中期において活躍した女流歌人として、和泉式部と並んで称されている(『俊頼髄脳』では赤染衛門よりも和泉式部が高く評価されたが、鴨長明『無名抄』では赤染衛門の方が高く評価された[1])。

文学作品

和歌

小倉百人一首

五十九番 やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな (『後拾遺和歌集』恋680)

姉妹のもとに通っていた藤原道隆が訪れなかったため、姉妹の為、和歌を代作した。

下記説話に関連する歌

代はらむと 祈る命は をしからで さてもわかれむことぞ悲しき (『詞花和歌集』雑下362)

【現代語訳】

(息子に)代わり、死んであげたい、と祈る私の命は惜しくはないけれど、その祈りが叶うなら(息子の大江挙周と)別れることになるのは、悲しい。


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Last-modified: 2023-09-12 (火) 08:59:43