桜の花を誘って吹き散らす嵐の日の庭は、桜の花びらがまるで雪のように降っているが、実は老いさらばえて古(ふ)りゆくのは、私自身なのだなあ。
桜の季節を先取りするような歌ですが、新春にふさわしい美しい情景の中、自らの老いをふと自覚する深さを兼ね備えています。 門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし と詠んだのは、一休禅師でした。華やかさの中に一抹の寂しさを見つけるのは、日本人の好むところかもしれません。
春の山から吹き下ろす突風。突風が桜と「踊ろうか」と誘って花びらがひらひらと舞い落ちる。まるで雪のように「ふっている」けれど、実は「古りている(年老いている)」のは私の姿なのだなあ、としみじみと述懐する歌です。 桜の花が嵐で雪のように舞い散る場面が非常に美しく、それを老いとからませた対比が見事です。枯れた味わいは、幽玄を旨とする定家の好むところでしょう。花や嵐を人間に見立てる擬人法や、「降る」と「古る」を掛詞にするなど、さまざまな技巧も生きています。
この歌の作者、藤原公経は、後鳥羽院と順徳院親子が倒幕を企てた承久の乱の計画を知ったため幽閉されます。しかし幕府に情報を洩らして乱を失敗に終わらせ、その功績で太政大臣にまで昇りつめた人です。
源実朝の暗殺などがあったり、作者の生きた時代は政治の中心が公家から武士へと変わる激動期でした。「私も老いたものだ」と詠んだこの歌には、どんな想いが秘められていたのでしょうか。
作者は61歳で出家し、現在の京都市北山に西園寺を建てて住みました。豪奢なこの寺は、後に足利義満が譲り受けて別荘としています。あの有名な金閣寺です。