藤原基俊
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[[契りおきし させもが露を いのちにて あはれ今年の 秋もいぬめり]]
[[百人一首]]
藤原 基俊(ふじわら の もととし)は、平安時代後期の公家・歌人・書家。
経歴
藤原北家中御門流、右大臣・藤原俊家の四男。
藤原北家の出身で藤原道長の曾孫にあたるが、官位には恵まれず従五位上・左衛門佐にとどまった。保延4年(1138年)に出家し、覚舜(かくしゅん)と称した。
和歌
歌壇への登場も遅かったが、歌合では作者のほか、多くの判者も務め、源俊頼と共に院政期の歌壇の指導者として活躍した。革新的な作風であった俊頼に対し、基俊の作風は古い歌風を重んじたものであったという。晩年には藤原俊成を弟子に迎えた。漢詩文にも通じ「新撰朗詠集」を撰集している。
「金葉和歌集」以下の勅撰和歌集に百余首入集。家集に「基俊集」がある。
小倉百人一首
[[契りおきし させもが露を いのちにて あはれ今年の 秋もいぬめり]] (「千載集」雑・1023年)
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[[百人一首]]
藤原 基俊(ふじわら の もととし)は、平安時代後期の公家・歌人・書家。
経歴
藤原北家中御門流、右大臣・藤原俊家の四男。
藤原北家の出身で藤原道長の曾孫にあたるが、官位には恵まれず従五位上・左衛門佐にとどまった。保延4年(1138年)に出家し、覚舜(かくしゅん)と称した。
和歌
歌壇への登場も遅かったが、歌合では作者のほか、多くの判者も務め、源俊頼と共に院政期の歌壇の指導者として活躍した。革新的な作風であった俊頼に対し、基俊の作風は古い歌風を重んじたものであったという。晩年には藤原俊成を弟子に迎えた。漢詩文にも通じ「新撰朗詠集」を撰集している。
「金葉和歌集」以下の勅撰和歌集に百余首入集。家集に「基俊集」がある。
小倉百人一首
[[契りおきし させもが露を いのちにて あはれ今年の 秋もいぬめり]] (「千載集」雑・1023年)
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