めぐりあひて 見しやそれとも 分かぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな 百人一首

概要

紫式部(むらさき しきぶ)は、平安時代中期の女房、作家、歌人。『源氏物語』の作者とされ、『紫式部日記』を残しており、歌人として『紫式部集』を残した。『後拾遺和歌集』などに入集し、『中古三十六歌仙』『女房三十六歌仙』『百人一首』に選ばれている。

紫式部 百人一首 57番「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」

眠る紫式部(菊池容斎『前賢故実』江戸末期から明治初期の作)

伝記

父は藤原北家良門流の越後守・藤原為時、母は摂津守・藤原為信の娘(藤原為信女)である。父方の曽祖父には三条右大臣・藤原定方や堤中納言・藤原兼輔があり、一族には文辞で聞こえた人が多い。父為時も漢詩人、歌人として活動した。

紫式部の実名や正確な生没年はわかっていないが、おおよそ天禄元年(970年)から天元元年(978年)の間に生まれたと考えられている(「生没年」参照)。同母の兄弟に藤原惟規がいるが、紫式部とどちらが年長かは両説が存在する[2]。ほかに、姉がいたこともわかっているが、この式部の母親は早世したとされている[3]。

紫式部は幼少の頃より漢文を読みこなしたなど、才女としての逸話が多い。970年代後半より父為時が東宮時代の花山天皇の読書役を務め、永観2年(984年)の天皇即位にともない蔵人、式部大丞と出世したが、2年後に天皇が譲位・出家すると散位となったため、一家は不遇の時代を過した。10年後の長徳2年(996年)、為時がようやく越前国の受領となり、紫式部も約2年を父の任国で過ごす。

長徳4年(998年)ごろ、親子ほども年の差がある又従兄妹[注釈 1]、山城守・藤原宣孝と結婚する。長保元年(999年)に一女・藤原賢子(大弐三位)を儲けた。この娘も『百人一首』『女房三十六歌仙』の歌人として知られる。しかし、この結婚生活は長くは続かず、長保3年4月15日(1001年5月10日)に宣孝と死別した。『紫式部集』には、その心情を詠んだ和歌「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」が収められている[注釈 2]。

長保4年(1002年)ごろ、『源氏物語』を書き始める[注釈 3]。のちに藤原道長に召し出され、寛弘2年12月29日(1006年1月31日)、もしくは寛弘3年同日(1007年1月20日)より、一条天皇の中宮・藤原彰子(道長の長女)に女房として仕える。女房名は藤式部(とう の しきぶ / ふじ しきぶ)で、後に「紫式部」と呼ばれたとされる[5]。彰子の家庭教師としての役割も果たしたとされ、少なくとも寛弘8年(1012年)ごろまで奉仕したようである。この間、大量の料紙を提供されていることから、そこに『源氏物語』を書くことを依頼されたと考えるのが自然であり、その依頼主として可能性が高いのが藤原道長である[6]。

なお、近代以降の伝記では顧みられることのなかった説として、永延元年(987年)の藤原道長と源倫子の結婚の際に、倫子付きの女房として紫式部が出仕した可能性が指摘されている。『源氏物語』解説書の『河海抄』『紫明抄』や歴史書『今鏡』には、紫式部の経歴として倫子付き女房であったことが記されている。傍証として、永延元年当時は為時が散位であったこと、倫子と紫式部はいずれも曽祖父に藤原定方を持ち遠縁に当たること、さらに『紫式部日記』には、新参の女房に対するものとは思えぬ道長や倫子からの格別な信頼・配慮がうかがえることが挙げられる。女房名からも、為時が式部丞だった時期は彰子への出仕の20年も前であり、のちに越前国の国司に任じられているため、寛弘2年に初出仕したのであれば父の任国「越前」や亡夫の任国・役職の「山城」「右衛門権佐」にちなんだ名を名乗るのが自然で、地位としてもそれらより劣る「式部」を女房名に用いるのは考えがたく、そのことからも初出仕の時期は寛弘2年以前であるという説である[7]。


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