男のいないこの家は静かだ。
ミニマルチが遊んでいる小さな音の他は特に何もない。セリオも昼間は動きを止めていることが多い。といっても電源を落としているわけではない。とりあえず仕事がないのでデータ整理をしたり、細かい作業をしたりミニマルチの相手をしているからだ。来客があると一瞬賑やかになるのだが、それ以外はあまりバタバタしないので静かなのである。
だがこの日は違ったようだ。
「?」
聞き慣れないエンジン音を玄関に聞き付けたセリオは立ち上がった。
それは車のものだった。かなりの旧式だ。最近の車は静かなものが多いし、特にいわゆるコミューターカーに至ってはハイブリッドが進みすぎ、まるで電気自動車のように音がしないものだ。なのにその音はかなり大きく、小さいが回転具合のよくわかる類の機械音を発していた。
エンジン音が玄関先で止まった。誰かが降り、玄関のドアを開ける。
「ただいまー」
「お帰りなさい大将。……その軽自動車は?」
「もらっちまった」
「……は?」
北海道では車が必需品である。札幌の中心部から動かないならまだしも、道内一般では車がないと生活自体が成り立たないことも珍しくない。公共交通網がカバーしきるには非現実な広さと人口密度だからなのだが、そもそも行動範囲が広いという事もある。主婦が定期的にいく大安売りのスーパーが100km向こうにあるなんてことも珍しいことではない。
この国で必需品という事は、同時に「すみずみまで溢れている」ことをも意味する。まさにピンからキリまでたくさんの車が北海道には存在し、使われている。
もっともその普及の仕方と度合いは内地のそれとはいささか異なるのだが。
もちろんいわゆる車好きは内地同様に存在するが、それ以上に実用ニーズの割合が内地のそれと比べても圧倒的大多数を占めている現状があるし、なにより土地柄の違いも大きい。内地でよく売れている車が北海道でも売れているとは限らないし、またその逆もありうるのだ。
極端な例だとオープンカーや二輪のレーサーレプリカマシンがわかりやすい。
屋根のない、または幌のみのオープンカーを『最高気温が氷点下』の北海道でわざわざ『実用に』買うというのはあまり一般的ではないだろう。そしてサーキット走行に最適化しすぎて直線を延々のんびり走るのには向かず整備に手間のかかる最新鋭レプリカバイクも同様。売れ筋が全然違うんである。
同じ理由で流行も異なる。たとえば同じ四駆ブームでも、はっきりいって内地のそれは一部の切実な実用派をのぞき「皆が四駆にするから〜」「なんかよさげだしラインナップが〜」という類の主体性のない乗り換えが多数派だったわけだが、北海道のそれは「冬場の安心」と実に積極的かつ切実な理由だったものだ。雪路での性能のよさが先駆的ドライバーから広がり、またたくまに主婦層までもが「よんだぶりゅでぃーっていいんでしょ?」と需要の後押しをしたのである。
こういう時にわざわざFFやFR、つまり四駆でない自動車を売り買いしようとするとどうなるか?そう、安いのである。店に渡すより、欲しがってる知り合いにプレゼントしたほうがいいと一般人に思わせるくらいには。
この軽自動車もそうした類の出物なのだろう。タダでもらったからといってどうしようもないポンコツというわけではないのだ。まぁ、古いことは古いのだが。
「で、これはどなたにいただいたのですか?」
男に渡された書類に目を走らせつつセリオはつぶやいた。
ここは車の中。男は運転席でセリオは助手席、ミニマルチは後部の荷物室で遊んでいる。
本来は四人乗りのようだが後部座席はおもちゃのようなものだし、それもこの車では畳まれていて事実上二人乗りである。背が低くスポーティな姿。どうやら近年では非常に珍しいクーペ、それも荷室が小さすぎて乗員スペースと一体になっている、いわゆるハッチバッククーペのようだ。軽の規格であることを考えてもそのボディサイズの小ささは尋常ではない。車重もおそらく日本の乗用車としては指折りの軽さだろう。これより軽いというと相当特殊なモデルしかあるまい。
明らかに『家族』を想定した車ではない。普段はひとりで身軽に、時には友達か彼女でも載せてドライブをどうぞ、というメーカーの趣向がよくわかる。荷物もあまり大荷物は想定してないが、テニスラケットやキャンプ道具程度なら工夫すれば問題なく積めるだろう。だがあくまでこの車の本質は、軽本来の気軽さを生かしてすいすい走るためにあると思われる。
確かに、現在の売れ筋ではあるまい。趣味車としては地味すぎるし、実用としては荷物が乗らなさすぎる。
「札幌支社の部長の、えーと……息子さんの奥さんの妹、だっけか。結婚したんだけど、家族増えるからこれはもう使えないって」
「なるほど。この車でも三人以上乗れなくもないですが……荷物が乗らなくなりますね」
後部座席を潰し広げているにもかかわらず、おそろしく狭い荷物スペースを見ながらセリオは言った。
確かに。これで後部座席を座席として使った場合、バーゲンで買いものしすぎただけでも荷物が乗り切らないかもしれない。
もちろんセカンドカーと割り切れば、奥さんとチャイルドシートの二人乗りで買い物なんて用途なら問題ない。だが低すぎる車高が気になったのだろう。フットワークが身上の軽クーペだが利便性においてはバンや普通車セダンなどの敵ではない。乗り降りに結構屈みこんだりしなくてはならないからだ。
21世紀はじめにほとんど絶滅したはずの軽クーペだったが、この車の年式はそう古くない。華やかなメイドロボブームの裏でどこかのメーカーが復興を試みたのだろう。懐古趣味ではあるが悪くない。クーペという形態はいわゆるコンパクトカーのそれに近いわけで、車に興味のない手合いには「妙に背の低い小さい車だな」程度にしか見えないだろうし、クーペ好きといいきるほどのマニアなら、20世紀の軽乗用車を思わせるこのクルマはちょっと小粋に感じるだろう。
もっとも、だからといって乗りたいほどの魅力があるかというと微妙だが。
セリオはじっとその車を調べている。
「車検はしばらく残ってますね。保険は……ああ、これが前の持ち主の方ですか。切替えが必要ですね。では保険会社に今、連絡をつけましょう」
「え、ここでできるのか?」
「もちろんお任せください」
「へぇ。さすがセリオだな。大したもんだ」
「……」
半分呆れたように唸る男。セリオの表情は変わらないが、なんとなく得意気のようでもある。
「保険形態はいかがなさいますか?カブのものを解約し、こちらをベースにしてファミリーバイク特約を設定すれば差額は4000円程度で収まります。ただしカブの方で累積している割り引きがリセットされてしまいますが」
男は14年ほど無事故無違反である。保険も切らしてないので割引率は高い。
だが、任意保険とはいえ90ccのカブは原付二種。つまり『自動車』ではないわけで、金額もそう大きなものではない。
「かまわない、そうしてくれ」
「わかりました」
しばらくセリオは微妙に動いたり止まったりしていた。サテライト通信中なのだろう。
「保険を設定いたしました。仮の証明書がただちに発行されます。どこでもかまいませんからコンビニに向かってください」
「コンビニ?」
「はい。うちにはプリンターがありませんから、コンビニで印刷してもらいましょう」
「なるほど。じゃあ車出すよ」
そういうと男はキーをひねった。
ここまで走ってきたこともあるのだろう。軽いセル音と共に一瞬でエンジンが目覚めた。
「どうだいセリオ。調子よさそうだろ?」
「……」
だが、得意気に胸をはる男をセリオは見ていない。メインパネルをあれこれ観察していたのだが、
「通信ターミナルがありません」
「……んなもんないって。いつの車だと思ってんのさ」
古い車だし廉価版でもある。ネット端末をつなぐとこなぞ存在しない。
まぁ同時に、車を買うのにネットの契約をするなんてばかばかしい事もしなくてすむ逆説的メリットもあるのだが。
「……では失礼します」
「はい?……っておい!」
首をかしげる男の目の前でいきなり、セリオは左手首を外した。
「直接つなぎます」
「待て待て、ちょっと待てセリオ!」
「?」
男が慌てる理由がわからないのか、きょとんとした顔をしている。
「接続しては問題がありますでしょうか?」
「いやそうじゃなくて。この車に電子系の
「あります。市販状態ではその通りですが、この車の電子系には有線用のアダプタが取り付けられています。これは推測になりますが、おそらくドライビングコンピュータを搭載しご利用になられていたのではないかと」
「へ……そうなの?」
「はい。間違いありません」
ドライビングコンピュータといっても2000年頃のものとは違う。むしろ有名な宇宙もの映画に登場する円筒型のロボットを想像してもらうとわかりやすいだろう。車だけでなく電子系のメンテや修理に特化した汎用ロボなのだが、車好きが好んで車載するのでこの名がある。メーカーによってはドライビングコンピュータ積載を前提にデザインするところもあるほどなのだ。
ロボットといっても色々ある。汎用アンドロイド、すなわちメイドロボだけが普及したロボットではない。
「なんだ、結構好き者だったんだな。あれ?でも女の子なのに?」
「その表現はいささか女性蔑視のニュアンスを含みますが。まぁ強いて申し上げますと、いわゆるスラングでいう『彼氏チューン』の可能性もありますね」
「あー……なるほど」
クルマの保守を彼氏任せにする女の子。こういうのは世代を問わずいるのだろう。
「そっか。なら、結婚してクルマ手放すというのもなんとなくわかるな」
「?」
「いや、なんでもない。ところで話は戻るけど、接続はしなくていいよ」
「どうしてでしょう。私もドライビングコンピュータのように専門化してはおりませんが、ダウンロードすれば運航制御くらいは可能ですが」
「調子悪かったら頼むよ。でも今はいらない」
「……いけず」
「は?」
「いえ、なんでもありません」
「??」
マスターの人づきあいの致命的少なさには気づくセリオだが、こういう面にまでは残念ながら気づかないようだ。
そして男もまた、セリオのAIの見せる微妙な感情の変化にまで気づくくせに、それが「どうして変化するのか」には気づいていないようだった。