流転

 自分の町に帰ってきた時にはもう、世間は夜の装いだった。

 一晩とめてもらった翌日、最初コージさん、そして名残惜しそうに母さんが出勤していった。僕は電車で帰るし方向も違うので送っていってもらう事は辞退した。とはいえそんな長い時間を母さんのいない母さんの家でつぶすつもりなんて、もちろんなかった。

 そうなってしまったのは、モーニカと(まれに)ちゃんの連合軍のため。食事とか勉強教えてとか巧みな言葉で引き留められた僕は、ついつい長居することになってしまったのだった。

 いや、希ちゃんは凄く可愛い子だったけどね。半分とはいえ血のつながった女の子があんなに可愛いなんて。母さんには悪いけど、きっとあれはコージさんの方の血なんだろうな。

「にしても……参ったな」

 やれやれとためいきをついて空を見あげた僕だったのだけど、

「何がですか?」

 一瞬後には、聞き慣れた誰かの声を聞いていた。


「?……あぁなんだ、みっちゃんか」

 商店街にある歯医者さんとこのHM-13だ。

 この可愛い子に万力のような力でふん掴まれ、美人の先生がにっこり笑ってドリルを回転させたあの時の思い出は今もトラウマである。いやまぁ結構昔の話なんだけどね。

「……」

 みっちゃんは僕の口元にちょっと注目するように見ると、小さく頷いた。

「歯磨きが行き渡ってませんね。おでかけされてましたか」

「開口一番がそれかよ」

「はい、仕事柄」

 まぁ……仕事熱心はいいんだけどさ。

 みっちゃんに限らないがマルチもセリオもわりと遠慮ないよな。こんな応対でよくクレームがつかないもんだ。

「おや、みっちゃんじゃないか。ちょうどいいところに」

「これは野中様。こんにちは」

 ふと声がかかる。見ると商店街で見た記憶のあるおばさんが回覧板を持っていた。

 みっちゃんは礼儀正しくきちんとおじぎした。

「みっちゃん悪いけど、これ先生に『渡して』くれるかい?」

「わかりました。置いておくのでなく『確実に』『手渡しで』『見せて』さしあげればいいんですね?引渡し先は野中様に、必ず先生ご自身で届けるようにと」

「そそ、さっすがわかってるわねえ。じゃ、頼んだわよ」

 にやっと笑うおばさん。くすっと悪戯っぽく笑うみっちゃん。なかなか絵になる。

 せりなの微妙な口元だけの、だけど自然に出てくる笑みを知ってる僕には「相手にあわせてるだけ」とわかる笑いだけど、ムスッとしているよりはウケがいいだろう。だから僕もいちいち突っ込まないのが正しいんだと思っている。

 これも学習の成果というやつか。セリオやマルチたちがこうして「みせかけ」だけでも笑うようになってから、随分と世の中はメイドロボに好意的になってきた。

「はい。おまかせください」

 おばさんはにっこりと笑ってみっちゃんに回覧板を渡し去っていった。

「……先生ってわりとズボラなの?」

「それは個人のプライバシーですので」

「いや、それ『ずぼらです』って言ってるのとあんまり変わらないし」

「先生の名誉のためにあえて申し上げますが、先生はとても仕事熱心な方です」

 はいはい、優秀すぎて他には目がいってないわけね。回覧板なんか話に聞いてても次の瞬間には覚えてないと。

 はは。あの先生らしいや。すごい腕がいいのに日常では大ボケだって噂は本当だったのか。

 あー、そういえば。

「ところでみっちゃん」

「なんでしょう?タイスケさん」

「僕とあのおばさんで態度が全然違うのはどうしてなの?」

 いや、みっちゃんだけではない。

 この商店街にもマルチやセリオは結構いる。だけど僕はあんな風におじぎされた事なんてほとんどないと思うぞ。せいぜい初対面の一回だけだ。

 そういえば、モーニカも最初だけ丁寧で、しまいにゃぞんざいな態度になったな。ま、その方が親しみあっていいけどさ。

「もしかして、相手によって挨拶を変えたりしてるわけ?」

「全てというわけではありませんが、確かに変えることはあります」

 なんだかなぁ。

「そっか。じゃあその基準ってなんなわけ?たとえば僕の場合だけど」

「内緒です」

「なんでだよ」

「どうしてもです」

 わけがわからない。理由くらい話してくれてもいいだろうに。

 むう。ま、いいけどね。

「そっか。さて帰るか。そんじゃあね」

「ところでタイスケさん。最初に戻りますが、何が『参った』のですか?」

「……君らはどうしてそう超マイペースなのかな。せりなといい君といい」

「ロボットですから。空気を読むというのは苦手なのです」

 うそつけ。三河屋さんの御用聞きも真っ青に空気読めることくらい知ってるぞ。

 メイドロボは下手な人間よりうまく空気を読む。やはり介護のために作られたということもあるんだろうけど、経験を重ねたメイドロボのそれは恐ろしいほど的確だったりする。元々はマスターのメンタルヘルスに対応するためだったんだろうけど、家庭内にメイドロボが急速に普及した最大の理由はたぶんこれだ。

 『気をきかせる』ことのできる機械。それがどれほど物凄いことなのかなんて、専門家でない僕にだってわかる。

 僕はちょっとだけ躊躇し、そして正直に言った。

「まぁちょっとね。家庭の事情で初対面の身内に会ってきたんだ。そこでいろいろあってね」

 そうですか、とみっちゃんは頷いた。

「それは仕方ないでしょうタイスケさん。それぞれに家庭の事情がありますので私などがコメントしていい問題ではないと思いますが、客観的にいってあの年頃の女の子は微妙です。タイスケさんという存在がユニークだったので興味をもたれてしまったのでしょうね」

「そっか。そうだよな」

「はい」

 さて、とみっちゃんは回覧板を抱え直すと、

「それではタイスケさん。せりなさんが首を長くしてお待ちかねですので」

「ん、そうだね。長話で悪かった。じゃ」

「いえ、それでは」

 そういってみっちゃんと別れ、少し歩いたところで僕は気づいた。

「……ちょっとまて。僕、希ちゃんの歳なんて一言も言ってないぞ」

 そもそも女の子である事すら言ってない。どうして知ってるんだ?

 あわててふりかえってみっちゃんに聞こうと思ったのだけど、すでにみっちゃんは歯医者さんちの中に戻ってしまっていた。

 中に入ってきいてみようとしたが、僕の苦手な美人の先生が入口に現れた。

「あらタイスケ君しばらく。たまにはせりなちゃんだけじゃなく、うちで検査してらっしゃいよ」

「うわ」

「あら、ごあいさつね。開口一番がそれなの?」

 うふふと先生は妖艶に笑った。

 正直、このひとは苦手だ。

 もともとはみっちゃんも苦手だったけど、みっちゃんはHM-13だから大丈夫。せりなと同じ顔の彼女には気楽に話せるようになった。

 だけどこの先生はそうはいかない。

 申し訳ないんだけど、僕が美人の女医さんを苦手とするのはこの先生のせいだ。にっこり笑ってドリルで歯を楽しげに削られた幼児時代のことが今もトラウマなんだ。しかも先生ときたら年数の過ぎた今も美しさがいささかも衰えない、それどころか年齢不詳の凄味のある美女になりつつある。商店街の中をうろつく白衣姿ときたら、まるでドラマか何かから抜け出してきたよう。ますます僕は苦手になっていく。

 で、どういうわけか先生はそんな僕が面白いようで、逢うたびにからかわれるという構図だった。

「やです。つーかせりなで充分じゃないですか」

 ここ数年僕はほとんど虫歯がない。間違いなくせりなのおかげだろう。

 だけど先生は言う。

「いくらセリオタイプが優秀でも目視でレントゲンはとれないのよ?そういう事のためにうちみたいな専門家はいるんだし」

 理詰めで攻めてくるし。

「ぜ、全力で遠慮します!」

 内心ゲゲッと思いながら、僕はあわてて逃げ出していた。先生が背後でクスクス笑っているような気がした。

 まったく、勘弁してくれよ。


 女は汝の耕作地なりという言葉がある。クルアーン、つまりイスラム教の経典にある言葉だという。

 単に表面だけ見れば男尊女卑も甚だしい言葉だと思う。少なくとも僕はそう考えていたんだけど……。

 だけど、せりなはそれを否定した。

「わたしには事の是非はわかりません。ですが、そうではないという意見も存在するのです」

「そうでない意見?」

 はい、とせりなは答えた。

「クルアーンというのは書物でありますが、それは著者によって計画的に書かれた創作物ではありません。イスラムの開祖であるムハンマドという人物の語った言葉を書き留めまとめられた、いわば名言集という性格のものです」

「へぇ」

 そういや聖書もそうなんだよな。いろんな時代、いろんなひとの手を経て完成していった書物だと聞いたことがある。まぁ、昔のことだし諸説はあるんだろうけど。

 せりなの話はつづく。

「科学や流通の発達した現代と違い、昔はほんの少し気候が変動するだけで大量の人が死んでいたといいます。そんな時代に書かれた言葉です。推測ですがその言葉の裏には、子をなすという大切な役割をもつ女性を守ろう、という意図があるのだと考えられます」

「……まさか。それは深読みしすぎじゃないか?」

「いえ、少なくともその意図があるのは間違いないと推測されます」

 せりなは何かを確信しているようだった。

「イスラム法では飲酒が禁止されています。しかしそれは、乾燥した灼熱の砂漠でのアルコール摂取が大変危険だからではないでしょうか。アルコールを摂取すると肉体は大量の水分を欲するものです。つまり脱水症状を誘発する可能性があるのです」

「あ」

 なるほど……理屈に合ってる。

「豚肉が禁止なのも、肉類の摂取にいろいろと制限があるのも砂漠生活にあてはめると大変合理的です。豚肉は雑菌が多いので調理に注意が必要ですし、流通機構の未熟な時代では、鮮度の落ちた肉をみだりに摂取するのは大変危険だったと思われます。おなかを壊せば下痢をします。これも大量の水分を失ってしまうのです。しかも砂漠は水が少ないので、洗浄方法も殺菌方法も水の多い土地とは勝手が違うのです」

「……砂漠ならではの配慮ってことか」

「そのとおりです、タイスケさん」

 反論できない。なるほど、いちいち合理的だ。

「無論これらは数ある推論のひとつにすぎません。また現代西洋文明の枠にあてはめると、時代外れのうえに女性差別という意見があるのも確かでしょう」

 そういってせりなはいったん言葉を止めた。そして、

「ですが、古い考えが必ずしも不合理なわけではないでしょう。価値観や倫理とは時代と共に変貌するものです。今は異端とされることでも、いつの日か自然な考えであるとされる時代がくるのかもしれません」

 そう言った。

 僕はふと気になったことをせりなに尋ねた。

「せりな」

「はい?」

「それは誰の言葉?」

 せりなは僕の言葉を少しだけ首をかしげて聞いてから、

「これはわたしの考えです」

「せりなの?」

「はい。得られた情報から推測した結果です」

 そう、せりなは言った。少しだけ……そう。僕にだけわかる笑顔で。


 その時まだ僕は、目の前に迫りつつある凶兆に気づいてもいなかった……。

『ひとの心も、風景も、全ては流転していくものです。タイスケさんも』

『僕も?』

『ええ、そうです。わたしにはデータとして知ることはできても理解はできませんが、タイスケさんならば実感できるでしょう』

『僕にもよくわからないよ』

『そうですか。でも覚えていてくださいタイスケさん』

『……?』

『ひとは迷うものです。一時の混乱から全てを失わないよう、前を見ていてくださいね』

『せりな?』

『それだけです。お食事の用意をいたします』

『あ、あぁ』

 思えばこの時、せりなはきっと予感……いや違うか。せりなはロボットだ。

 たぶん……せりなは推測していたんだ。僕に迫る危機を。



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