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逢魔が刻(1)

 それが遠いあの頃の夢である事に、メルはすぐに気づいた。
 
 見た事もない異星の光景が広がっていた。
 学習機のおかげでコミュニケーションは可能とはいえ、本当に雑多な言語が飛び交う雑踏があった。さまざまな「人々」が生きている銀河の世界。それはまさに混沌のるつぼであり、活気にあふれた縮図でもあった。昭和42年生まれの日本人で、しかも当時14歳の少年の知識と経験しか持たないメルにとり、それはまさに幻想的としか言いようのない途方もない異郷だった。
 そんな中、夢の中のメルは混乱していた。
 ただでさえ、女の身体になるという異常事態にようやく慣れたばかりだった。メル自身のわがままが発端ではあったけど、結果として今の身体の習熟を住み慣れた日本で行えた事はいい傾向を生んだようで、少なくとも現在のメル自身のパーソナリティの安定化はカウンセラーを担当した医師の弁によれば、肉体への順応が遅れている事を除けば非常によいとの事だった。
 ──なのに。
「どうして」
 夢の中のメルは悲しんでいた。悲しみが混乱を生み出していた。
 その理由はもちろんメルにはわかっていた。忘れられるはずがない。
 
『誠一さん、いえメル。これからはわたしでなく、宇宙を見て生きてください』
『なんでだよ!』
『だってメル、あなたは女の子でしょう?そりゃあわたしは今だってメルが好きだけど、あなたを満足させてあげる事はもうできないもの。大丈夫、時間はかかるかもですがきっといい方が見つかりますよ』
『答えになってないだろ!』
 
 そう、それは綾に恋人関係の解消を告げられた、まさにその日の光景だったから。
 
 それは悲しい、切ない光景だった。今でもリアルタイムでメルの胸は痛む。
 だが同時に疑問も残る。今にしてみれば(アヤ)の態度はどうもおかしい。
 突然女になってしまったメル。そのメルをつきっきりでフォローし、このイダミジアでも側を離れようとしなかった綾。それがやっと落ち着いてきて、やっとこさ綾との関係について考えられるようになったかと思ったその日、いきなりこのような宣言を行ったのである。しかも「わたしは今もメルが好き」などと妙に思わせぶりなフレーズまでつけて。
 いったい彼女は何がしたかったのか?
 どうして妙な含みまで持たせて、しかも盛大にメルにダメージを与えるような方法をとったのか?賢い彼女の事だ、日頃から「いつまでも一緒にはいられない」などとゆっくり諭していけば、たとえ別れが避けられないとしてもうまくやる手はいくらでもあっただろうに。あるいは逆に「嫌いになった」と感情的にフッてしまえば、メルの性格ならば嘆き落ち込んでも後には引きずらなかったろうに。
 なぜ?
 そして結局、それは結末を迎える事がないままメルの心の奥深くに凍結されてしまった。「まだ望みがあるかもしれない」という微かな希望がメルの心に残されていたからだ。結局それはメルを30年も縛り付け、結果としてその精神をいろいろな形で歪ませてしまっている。そう、それは今この時もそうだ。今は落ち着いているというだけで、メルの精神は目の前にいる、このリアルタイムで悩んでいる夢の中のメルの状態からまるで変わっちゃいない。
「……」
 夢の中のメルは悩み続けていた。
 なんとなく外出したようだが行く先などあるわけがない。街角にある休憩用の長椅子に座ると、はぁっと大きなためいきをついた。
 と、その時だった。
『おねえちゃん!』
「!」
 夢の中のメルがふと顔をあげると、そこには最近よく会う小さな姉弟がいた。おねえちゃんと声をかけたのは弟の方だった。
 ああ。夢の中のメルとそれを見ているメル、ふたりの顔が同時にほころんだ。
 この星にきて間もない頃、いろいろあってスラムで暴れてしまった事があった。その時に助けた姉弟だった。
 他にも助けた人や子たちはいたのだけど、どういうわけかこの姉弟だけは非常に熱心にメルを尋ねてやってきたのを覚えている。本当にかわいらしくて、その優しい思い出はこの星の思い出の後半……そう、悲しみにくれていたメルの時間には欠かす事のできない癒しの時間でもあった。
 なんてこと。今の今まですっかり忘れていた。
(……ん?)
 だが、そこまで思い出したメルは違和感に首をかしげた。
 ちょっと待て。なぜ自分はこの子たちの事を忘れていたのか?まるでぽっかりと綺麗に抜け落ちるように。
 そして、どうしてこのタイミングで唐突に思い出す?まるで、状況を見ている誰かが見計らったかのように?
 何だ?何が起きている?
(……?)
 背後で見ているメルが悩んでいる間にも、夢の光景は進んでいく。メルの顔に笑みが少し戻り、こんにちはとあいさつした。
(?)
 首をかしげていたメルだが、ふと思い直して再びふたりを見た。
 だがその瞬間、メルの悩みはさらに、さらに深まった?
(……リン?)
 ふたりを再度見た瞬間、メルの巫女としての目はリンの姿をとらえていた。
 いやまて、それはおかしい。
 どちらもリンではない。理由は説明できないが、メルの中の巫女としての部分がそう言っている。ふたりのうちのどちらかが成長してリンになった、なんて事はない。根拠はないがおそらくこれは間違いない。
 だが同時に、この二人はリンと非常に近い気がする。だからふたりを見てリンの姿が浮かぶのだ。
 きょうだい?親戚?わからない。
 何か微妙に事実とかすっているかのような、些細なようで決定的な違和感。
『どうしたの?』
 背後のメルが悩んでいる間も事態は進んでいく。夢の中のメルは現れたふたりにそう問うていた。
『どうしたじゃないよ!おねえちゃんどうして泣いてるのさ?』
『あの……どうされたのですか?』
 どうやら心配してくれているらしい。まぁ誰がみてもあからさまに泣き顔なのだから無理もない。
『ううん、なんでもないよ大丈夫。ありがと』
 そう言って夢の中のメルは涙をぬぐい笑った。こんな小さな子たちに心配をかけちゃいけない、そんな気持ちだったのだろう。
 だが、そのメルの反応は逆に姉弟の眉を釣り上がらせた。
『嘘つくなよ!おれたちにはわかるんだぞ!まほーつかいの血が流れてるんだからな!』
『そんな言い方しちゃダメでしょ?……でも本当ですのよお姉様』
『そうなの?』
 ああ、そういえばそんな会話をしたっけとメルは漠然と思い出す。
 そう、確かその姉弟はボルダ人なのだ。きちんと確認をとったわけではないが、姉の方が確かそんな事を言ったんだっけ。
 ボルダとこの星は取引があった。だからそれ自体はおかしくない。当時のメルは魔法使いと言われても苦笑するだけだったが、そもそも子供の言う事である。そのあたりは軽く流したようだ。
 姉の方がメルの顔を覗き込み、ふと悲しげに言葉を紡いだ。
『お姉様の悩みは深いのですね。今のわたしたちではお力になれない。とても、とても悔しいです』
『そんな事ないよ……ありがとね』
 メルはちょっぴり半泣きになりながら、心やさしい姉弟をゆっくりと両手で抱きしめた。
 なんて優しい子たちだろう、今こうして見てもメルはそう思う。
 前々から妙に懐かれてはいたけれど、確かこの日を境に二人の来訪は劇的といっていいほどに増加したはずである。しかも子供のくせに妙なところに気が回るようで、どこにでも現れたにも関わらず、メルの仕事先だったルド翁のオフィスに現れた事はたったの一度だけだった。
(……)
 どうしてだろう?違和感がとれない。
 何かとても大事な事、今は気づかずともいつか知らなくてはならない事。それをこの夢は示しているように思える。
(……)
 とりあえずメルはこの風景を胸に刻んでおく事にした。そうしておけば、いつか記憶の最後のパズルがはまった時おそらく全てが一気に解明する。そんな気がしたからだった。
『わたくし、決めましたわお姉様』
『?』
 なんだろうと思うメルの耳元で、姉の方がこんな事を言い出す。
『わたくし、お姉様のお嫁さんになりますわ。元々お姉様がいなければもう死んでいた命ですし、そうするのがとても自然に思えますわ』
『……はい?』
 子供の思考というのは飛躍するものである。しかしこの短絡ぶりにはさすがのメルもついていけなかった。『慰める』事ができない、という事がどうしていきなり『お嫁さん』なのか。どこをどうひねくったらそう結論づくのか。
 いやいや、子供の論理に大人の論理で立ち向かうのは時間の無駄だろう。それはヒステリーを起こした女性に理屈を説くほども有害無益ではないが、それでもあまり意味のない行為ではある。
 論理や思考の母体が根本的に違うのだから、そもそも考えたって意味はない。まだ感性に訴えるほうがマシというものだ。
『ばっかだなぁ、女同士はケッコンできねーんだぞ。ケッコンするならおれだろ』
 結婚という言葉の意味をちゃんと理解していないのか、弟の方の『結婚』は少し棒読みに聞こえた。
 しかし、弟の方も負けずとズレている。苦笑いしてメルは突っ込もうとしたが、姉の方の反撃を聞いて目が点になった。
『ばかはあんたよ、知らないの?お姉様は男の子だったのよ。さいぼーぐって男のひとはいないから仕方なく女の子になっただけなのよ』
『な、なんだよそれ?そんなのアリかよ?』
『だからね、あんたはお姉様にとっては「男同士」に見えちゃうのよ。お姉様は女の子じゃないとダメなの……少なくとも「見た目」はね』
『ええええ、そ、そうなのか?ずりぃ』
『男か女かにずるいも何もないのよ、知らないのあんた?ばっかねー』
 いつの間にかメルを置き去りにどんどんズレていく姉弟の会話。
 なんだか微笑ましい。さすが姉弟というべきか、珍妙な論理の展開までそっくりなのがなんとも笑える。
 夢の中のメルはためいきをつき、そしてクスッと笑った。
(……ふうん)
 いつのまにかメルは完全に第三者視点になっていた。姉弟の様子を見ているうちに冷静になってきたのだろう。
 姉弟の正体がわからないのはひっかかるが、それにしても彼らの会話内容は言いえて妙だった。
 心が男で肉体が女。その肉体が合成されたものという問題が別にあるとはいえ、それはメルの抱えている問題を実に単刀直入に言い当てている。むしろ子供であるがゆえのストレートさが小気味よい。
 事実その問題は非常に大きかった。
 いや、実際のところを言えば「女として生活する」というのは時間がたてば慣れてしまうものだった。そんなものは社会的分別のようなものだし、扇情的な恰好をして男の視線にじろじろ見られる、なんて気持ち悪い事態だって今のメルなら平然と耐えてしまえるだろう。まぁ意図的にそんな恰好はしないし、基本的にメルのような立場のサイボーグはそういう目線を嫌って素肌を決して露出しないものなのだが、やりたくないというだけで不可能な事ではない。むしろ必要ならば積極的にそういう装いをして、男なら面倒事になるような事態をさっくりとスルーするなんて事もできるし、事実やってきた。
 だが、肉体的社会的に女としての立場にどう順応しようと、メルの深奥には未だ『少年・野沢誠一』の部分が存在する。
 『三つ子の魂百まで』?肉体的性を無視した頭のおかしなジェンダー論?いやいやそんなものは関係ない。メルの心を縛っているのはそんなものではない。
 『綾』だ。
 かつての誠一少年を魅了してしまった流れる黒髪の美少女。合成人間(ドロイド)であると言われても信じられず、やがてそれに納得しても「人工の身体といってもやっぱり生きた生身の女の子」と感じて夢中になってしまった存在。
 彼女に対する『想い』が今もなお、メルの深奥で絶大な力を持っている。それがゆえにメルは今でも「女の子の身体になってしまった少年」以外の何者でもなかった。
『……綾』
 そう、メルにだってわかっている。綾という存在には決してメルの手は届かないのだと。
 もしメルがかつての誠一少年のままだったら?いやそれはさらに無理だろう。
 綾はあくまでソフィア姫のものだから、たまに会いにきてくれたとしても誠一だけの綾にはなってくれなかったに違いない。いやそれどころか、誠一の方が銀河の市井に紛れてしまい、綾とは二度と会えなかった可能性の方がずっと高い。
 野沢誠一はどこまでも一般的な少年で、普通の日本人なのだから。
 『メル』という強烈な運命に巻き込まれてしまったため、銀河をまとめて裏返すような途方もない巨大計画の末端に座らされている、ただそれだけの存在にすぎない。虎の威を借る狐が所詮狐にすぎないように、異端の皮をかぶっているメルも結局、その中身はただの市井の人間にすぎない。
(……)
 メルはふと、自分の両手を見た。
 今ではすっかり見慣れてしまった、細くて柔らかな少女の細腕。だが少年だった時代のそれとはまったく違う。
 そう。
 どのみち、どう転んでも、元からメルの両手は綾には届かない。届くはずのない存在。
 銀河鉄道で旅する少年の手が黒服の女に絶対に届かないように、メルの手も決して綾には届かない。
 それは元からわかっていたこと。
(……)
 強烈な寂寥感がメルを蝕んだ。
 耐えきれずメルは自分の肩を抱いた。そう、夢の向こうで座り込んでいるかつての自分のように。
(……?)
 ふと、そんなメルを暖かい何かが包み込んだ。
 それが何かはわからなかった。だがメルはそれにしがみついた。あまりの寒さから逃げ出す旅人のように、それはなかば本能的なものだった。
 暖かい何かはそのまま、そっとメルを中に取り込んだ。
≪……お姉様≫
 溺れていくメルは、漠然とその『何か』の正体を本能的に理解した。
 はっきりと知覚しているわけではない。だがもう『それ』を恐れる理由はないのだと知った。
 
 それだけで今は充分だった。



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